2013年12月2日

スカラシップ2013上半期レポート 福原麻梨子

破壊されゆく都市、その風景へのレクイエム
  福原麻梨子

「東京ってさ、常にスクラップ・アンド・ビルドで成り立ってきた場所だから、また壊されるのは、仕方ないというか、もう東京の運命みたいなもんなんだよね。」
2020年のオリンピック開催地が東京に決まった同月のある日、東京在住の友人から言われた言葉が、私の耳には切なく響いた。近年オリンピック開催国になった北京やギリシャの都市開発に伴い、そこに元々あった人々の生活空間が隅へと追いやられていく様を新聞などで見ていた私にとっては、東京もまた、2020年までに色々なものが、新しく造り変えられるために壊され、まるでそこに初めから存在しなかったかのように消し去られる運命にあることは理解できた。何か、抗ってみても決して容易には抗えない、時代の大きなうねりの中に自分も巻き込まれている、そう思っていた時、今の東京と言う都市の現状とシンクロナイズする演劇作品があった。それが、戦後ドイツ社会のタブーを暴力的な言葉でもって抉り続けた、映画監督であり劇作家でもあった、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(1945~1982年)の『ゴミ、都市そして死』という戯曲を基に上演された作品である。

この作品は、戦後の都市開発が進むドイツはマイン河畔フランクフルトと言う都市の、底辺に押しやられて生きる娼婦や労働者たちの生活を描いた作品である。この戯曲が出版されたのは1976年。作者亡き後ドイツで初演されたのは1985年。ホロコーストと言う、人類史上極めて悲惨なユダヤ人大量虐殺問題に対するドイツ国民の反省が求められていた時代に、敢えて作中に、戦中ナチスが刷り込んだイメージ通りの「卑しい金もうけをするユダヤ人」を登場させ、ユダヤ人に対するあからさまな悪意や彼らを罵る場面があるこの作品は、反ユダヤ主義の刻印を押され、言うまでもなく出版直後から回収騒ぎが起こるなど当時大問題となった。そんな本国ドイツでの問題作が、渋谷哲也翻訳、千木良悠子演出、演劇グループSWANNY主催により、2013年10月下旬、東京の紀伊国屋ホールにて上演された。

新宿駅東口改札から伊勢丹方面へ歩いて紀伊国屋書店の4階に上がると、奥に古びたホールがある。こんなところにこんなものがあったのか、と普段見ている小奇麗な、いや正確には小奇麗に意図的になっていく大通りの風景が私の頭の中でまた少し変化する。新宿紀伊国屋ホール、そこは現代的施設と比べるとステージも小さく場内の造りも古い。しかし作品が戦後のドイツということもあり、上演開始後そのホールの古さこそが、作品により良い影響を与えたように思う。日本人の役者たちが演じる、冷戦下ドイツの底辺で生きる人々が違和感無く目前に現れ、ステージ全体の敢えてキッチュな装飾、ナチス時代を回顧させる音楽、役者たちの卑猥で下品で暴力的なセリフによって、すぐに観る者を戦後ドイツの荒廃した都市へとタイムスリップさせた。

ファスビンダー作品の特徴として、特別なことは起こらない筋書き、描くのはある都市における狭い世界ながらも極めて複雑な人間関係、前面に押し出される作者自身の孤独感、救いようのない結末、と言う点が大きく挙げられる。今回の作品も例外ではない。緒川たまき演じる娼婦の主人公ローマ・Bが、恋人に暴力を振るわれてもなお、その男のために寒い冬の街で客を取り続けるが、地上げ屋として私腹を肥やす、あるユダヤ人男性と関係を持ってしまったために物事がより一層立ち行かなくなり、最後にはそのユダヤ人の男に自らを殺すよう頼み、命を断つ。そしてローマの恋人フランツが殺人犯として疑いをかけられ(と言うよりも犯人など誰でもいいと考える警察や上層部の人間たちの判断により)逮捕されるところで収拾なく話が終わり、幕が閉じる。
主人公ローマを含め、最後までここに生きる人々は報われることもなく、悲惨さと孤独に満ちた、生まれ変わろうとする都市の中で生を押しつぶされて行く。役者たちが発する舞台上から観客席へと暴力的に流れ込んでくる「生」への根源的な問いかけが残響のようにホールを満たし、観客のエネルギーを確実に奪っていった。
観劇後にホールを出て、新宿の街の喧騒の中に戻ろうとすると、恐ろしい疲労感に襲われ、この2013年の新宿で、『ゴミ、都市そして死』を上演したことは大きな意味を持つのではないかと感じた。それは、これからますます失われていくであろう、東京と言う都市の風景への一つのレクイエムなのではないだろうか。

1964年の東京オリンピックで、日本は戦後の復興を見事果たしたことを、世界に強くアピールした。しかしその新しい都市を支えるコンクリートの下には、戦後の焼け跡の中で懸命に生きる―しかし大体において社会的にあまり好ましく思われていない生活を送る―人々の居住空間や生活そのものも、少なからず埋められてしまった。今回もまた、同じことが起きる。現にオリンピック開催国決定前から、仕組まれたかのように東京のインフラは整備され始めていた。明らかに街の雰囲気にそぐわない新しい下北沢駅が良い例だろう。あの巨大でクリーンな駅を見ると、この街の景色や人々の営みが変わろうとしていることに気づく。例えば、下北沢ザ・スズナリのような、落ちそうな階段を昇って行かなければいけないバラックの芝居小屋が失われる日はそう遠くないのではないだろうか。そこで静かにしかし脈々と培われてきた人々の営みとともに。
もちろん防災と言う点において、都市とは常に新しいものに造り替えていく方が安全であることは間違いない。しかし都市の風景が変わる時、それとともに失われて行くものも確実に存在する。2020年までに東京は一体どういう風景になるのだろう。その途中で消されて行くであろう、文化や小さな共同体は、もう戻ってはこないのだろうか。
『ゴミ、都市そして死』の上演には、そんな変わりゆく都市の現状への、ささやかな抵抗と飲み込まれて行くものへの鎮魂の意味があったように思えた。何の因果か紀伊国屋ホールが誕生したのが1964年と言うことを後に知り、その思いは一層強まるばかりである。







取り上げた作品及び参考文献、参考URL

・『ゴミ、都市そして死』ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー著 渋谷哲也訳 論創社(2006年)
・SWANNY Vol.5 ファスビンダーの「ゴミ、都市そして死」
(上演日時2013年10月25日~27日、上演場所新宿紀伊國屋ホール)
・演劇グループSWANNY公式HP  http://swanny.jp

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