「分からないという事を分かることについて」
山田カイル
スケールの大きな話から始める。「演劇」とは何だろうか。ある人は、何もない空間を横切る俳優と、それを眺める視線だと言った。ある人はバリッと揃った俳優の身体だと言った。出来事に演劇の正体を求めて、書を捨てて街に出よと観客を挑発した者も在る。
演劇とは儀式だという人も居る。あるコミュニティを維持するための儀式、祭りである、と。そういった言説にはたくさん批判もあるし、実際私も、演劇は儀式の機能を伴うとは思う。ただ、儀式としてはたらかない事によって演劇的であるような演劇も、あると思う。
演劇を少し狭い意味で捉えて「西洋に端を発する対話の一形式」と考えると、芸術家の仕事の輪郭が具体的になる。ミクロとマクロを接続することである。個を描くことで体制や社会、ひいては宇宙の在り方に迫り、反対に世界を描くことで、そこに生きる個の在り方を見直す。長らく西洋社会は、神(and/or 世界)と人間の関係について思い悩んできた。対話を通してその関係を整理する事は西洋の人々にとって火急の問題であり、演劇という制度のなかで中心的な役割を果たしてきたドラマは、対話という形式と親和性が高かった。
私は、演劇とは何か、という事に興味がある。というか、演劇が何なのかよく分かっていない。今のところ「なにがしかの約束事を共有している人間のあつまり」くらいのものだと思っている。モナリザの前に詰めかける人々や、ラーメン屋の行列に並ぶ人々は、すぐれて演劇的だと思う。けれど、これだって消去法でしかない。まだ何か、削ぎ落とせるものがありそうな気がする。
2014年度に私が王子小劇場で観劇した作品の多くは、ドラマのある演劇であった。その多くは、ミクロとマクロを接続するという機能を持っていなかった。3.14ch『宇宙船』のように、世界観を描くことに終始して、俳優のやり取りの演劇性は全くもって損なわれていた例から、劇団半開き『アムステルダムの朝は早い』のように、制度の中であがく人間をつぶさに描きながらも、制度自体への言及は説明に終始してしまった作品まで、様々であった。しかしいずれにせよ、ミクロを描くものは虫めがねを片時も離さず、マクロを描くものはロード中のグーグルマップを見ているようであった。
社会を鋭く批判するだけが、演劇の仕事ではない。しかし、社会に対して何のオピニヨンも持っていない演劇は退屈である。かといって人間を描くだけが、演劇の仕事でもない。しかし、描かれている人間に何らかのリアリティのない演劇は不要である。
王子小劇場では、独自の問いを持ちながらも、演劇という制度自体を問うている作品にはあまり出会えなかった。私が思っているよりも、皆、演劇というものが何なのか、分かっているのかもしれない。しかし、私には分からない。なので、その問いの答えを見つける事に協力してくれない演劇は、私にとっては良い演劇ではない。アートとは問い立てのメディアだと思うのだけれど、問い立てと、問われる物事の尺度の一致していない作品が目立った。
基本的に観劇というのは、しんどい事だと思う。1時間30分とか2時間とか、ずっと座っていないといけない。他人がずっとしゃべったり動いたりしているのを、見たり、聞いたりしていないといけない。トイレに行けない(行くけど)。ご飯食べられない(さすがに食べない)し、水も飲めない(トイレ行きたくなるので飲まない)。
そのようなしんどい時間を過ごして、何の良さがあるのか。観て楽しかったり、泣いたり、考えさせられたり、そういう事を求めるなら、好きな時にトイレに行ける映画の方が、僕はよほどすぐれていると思う。というか、家で本を読んでいれば良いと思う。
演劇を観るのは、根本的には、何かを分からないと認識するためなのではないだろうか。問い立てて、問うて、答えは出ない。出ないから問い続ける意味がある。演劇とは何か、を問う事は人間とは何か、を問う事である。人間が何なのか分かる人は居まい。だから、演劇が何かも分かるはずは無いと思う。
私は、演劇とは何かを分かった気になっている人は危険だと思う。そういう人が増えると、ただでさえ正体不明の演劇という妖怪が、余計にぼやけていく。なので、はっきり言って、今年王子小劇場で観た作品の多くは危険だと思う。
分かる事に価値があるのなら、演劇というメディアを採用することは不適切である。問分からないから演ずるのであり、演劇である限り、分からないのだ。批評、創作、両方の視点から、問い立てのプロセスがいっそう精査されていく事が、日本の演劇界の発展に寄与すると思う。
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