2013年12月31日

上演アーカイブ 2013年

16 / 15 / 14 / - / 12 / 11 / 10 / 09 / 08 / 07 / 06 / 05 / 04 / 03 / 02 / 01 /
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 2012年<
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【2013年上演作品】

1/10~14 20歳の国「花園」 

1/17~21 シンクロ少女「めくるめくセックス 発酵版」 

1/22~23 gekidanU「Black Coffee」 

1/28〜2/2 ロロ「ダンスナンバー時をかける少女」撮影 

2/3 夏葉亭一門会Vol.6 

2/7〜11 TOKYO PLAYERS COLLECTION「IN HER TWENTIES 2013」 

2/12〜13 ま夜中散歩「やすらぐあな」 

2/16〜25 The Dusty Walls「スペース合コン」&「スペース合コンBEYOND~全員恋人~」 

2/28〜3/5  あんかけフラミンゴ「あんかけフラミンゴ2」 

3/9〜10  劇団ハーベイ・スランフェンバーガーのみる夢「寝惚けた日記帳」 

3/14〜17 風雲かぼちゃの馬車「一遍  〜天演出編〜」 

3/20~26 悪い芝居「キャッチャーインザ闇」 

3/28〜31 GORE GORE GIRLS「俺がヤギでもその手紙だけは食えない」  

4/1 ツリメラ「ツリメラお披露目記者会見」 

4/2〜3 夏葉亭一門会Vol.7 

4/5〜7 極東退屈道場「サブウェイ」列島縦断延伸ツアー 

4/10〜14 劇団東京ペンギン「東京ユートリア」 

4/17〜23 Straw&Berry「マリア」 

4/25〜30 PLAT-formance「cut out list」

5/2~8 演劇企画公演 focus.「神話」 

5/10〜12 ENBUゼミナール「花のゆりかご、星の雨」 

5/17〜20 ライオン・パーマ「未確認の詩」 

5/24〜28 トツゲキ倶楽部「笑うゼットン」 

5/31〜6/2 ピンク地底人「ココロに花を」 

6/5~9 桃尻犬「キャンベラに哭く」 

6/13~16 劇作家女子会×時間堂presents「劇作家女子会!」 

6/19~30 こゆび侍「きれいなお空を眺めていたのに」 

7/3〜14 シベリア少女鉄道「遥か遠く同じ空の下で君に贈る声援2013」 

7/16〜17 ENBUフェスタ2013/中屋敷法仁クラス卒業公演「昼下がりの岸田」 

7/19〜21 intro「わたし-THE CASSETTETAPE GIRLS DIARY」 

7/24〜28 演劇ユニットG.com「聯綿〜レンメン〜」 

7/29  夏葉亭一門「夏葉亭一門会vol.8」 

7/29〜30 王子落語会「第19回王子落語会 怪談二夜」 

8/2〜3 王子小劇場サマースクール2013「小劇場!中高生!大往生!」 

8/4 シアタープロレス花鳥風月「シアタープロレス花鳥風月vol.13」 

8/9〜12 演劇組織KIMYO「スウィーティドム」 

8/16〜18 rorian55?「隣で浮気?」 

8/21〜25 ガラス玉遊戯「癒し刑」 

8/28〜9/1 まごころ18番勝負「排他的論理和の否定-eXclusive Not OR-」 

9/5〜8 劇団かさぶた「明日も明日も、そのまた明日も」 

9/12〜17 十七戦地「花と魚」 

9/19〜23 肋骨蜜柑同好会「ま・ん・だ・ら」 

9/26〜30 護送撃団方式「伽羅倶璃ーカラクリー」 

10/3~8 20歳の国「保健体育」 

10/11~15 あんかけフラミンゴ「あんかけフラミンゴ11」 

10/17~20 私立ルドビコ女学院「ロスト・セブンティーン」 

10/21~22 第27班「青鬼ver.27」 

10/25〜30 劇団チャリT企画「ニッポンヲトロモロス」 

11/1〜4 GORE GORE GIRLS「つかまえてごらんなさい、箸で」 

11/6〜10 東京ペンギン「素顔同盟」 

11/13〜17 3.14ch「司令室」 

11/20〜24 贅沢貧乏「アンダー・ザマク」 

11/25 夏葉亭一門「夏葉亭一門会vol.9」 

11/29〜12/1 オイスターズ「ここでいいです」 

12/4〜8 ブラジル「性病はなによりの証拠」 

12/11〜15 まごころ18番勝負「汝、公正たれ」 

12/16 王子落語会「第20回王子落語会」 

12/19〜23 キ・カンパニー「野球(再び)」 

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2013年12月19日

キ・カンパニー「野球(再び)」

キ・カンパニー http://kicompany.biz/
「野球(再び)」

2013年12月19日(木)~23日(月・祝)@王子小劇場 7st.

【作・演出】
望月幸太郎

【出演】
飯窪圭司 
栗田一生 
こと絵 
高瀬健吉 
竹本 
橋本匠 
ひょい 
三森勇太
村山拓
望月幸太郎

【日時】
12月19日(木)20:00~★
12月20日(金)20:00~★
12月21日(土)13:00~ / 18:00~
12月22日(日)13:00~ / 18:00~
12月23日(月・祝)16:00~

【チケット】
<一般>
---------------------------------
 ○前売り
 ・予約フォーム 3,000円
 ・オンライン決済 2,800円
 ・平日(★) 2,500円
 ・5名以上 2,500円(オンライン決済のみ)

 【割引】
  早割!11/30までにご予約された方は、500円割引させて頂きます。

 ○当日 3,200円

<学生>
---------------------------------
 ○前売・当日 2,000円 ※要学生証提示

<高校生以下>
---------------------------------
 ○前売・当日 1,000円

【こりっち】
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=49765

【スタッフ】
照明:半田達郎・栗村嘉穂
音響:安藤達朗
受付:福士愛・立原聡美
舞台監督:高瀬健吉
カードデザイン:永井弘人(アトオシ)・酒本悟史・嶋田優香
ウェブサイト・チラシデザイン:飯塚圭司
映像撮影:Creative Office Doel
協力:株式会社ライフサロン・株式会社コムネット
主催:キ・カンパニー

2013年12月16日

王子落語会「第20回王子落語会」

王子小劇場地域還元事業
第20回王子落語会 http://ojirakugo.seesaa.net/

2013/12/16日(月) @王子小劇場 1st.

【演目・出演】
「元犬」 立川談奈
「粗忽の釘」 瀧川鯉昇
「弥次郎」 立川左談次
〜お仲入り〜
「除夜の雪」 桂米紫
「武助馬」 瀧川鯉昇

【日時】
12/16(月) 19:00

【木戸銭】
前売り・当日ともに:2000円
俳優割引(予約のみ):1000円
満点PALカード 1枚

【感想などまとめ】
http://togetter.com/li/604096

2013年12月11日

まごころ18番勝負「汝、公正たれ」

まごころ18番勝負 http://www17.plala.or.jp/magokoro18/next/flier.html
「汝、公正たれ」

2013/12/11(水)〜15(日) @王子小劇場 12st.


【脚本・演出】
待山佳成

【出演】
浅利遼太(賢プロダクション)
岩﨑大輔
たみやすともえ
千葉優輝(オフィス薫)
寺井沙織
中村圭佑(イエローテイル)
中本順久
平田由季
五十嵐綾華
狩生士文
木村亜衣
鈴木健太
中村豆千代
松本朋也
簗木由貴
ゆきを


【日時】
12月11日(水) 14:30(B) 19:30(A)
12月12日(木) 14:30(B) 19:30(C)
12月13日(金) 14:30(B) 19:30(A)
12月14日(土) 11:30(A) 15:00(B) 19:30(C)
12月15日(日) 11:30(C) 15:00(A) 18:30(C)

事件A : 危険運転致死傷(約120分) 事件B : 強姦(約180分) 事件C : 殺人(約120分)

【チケット】
前売/当日:2300円

【こりっち】
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=51085

【感想などまとめ】
http://togetter.com/li/603826

【スタッフ】
舞台監督:松本朋也
舞台監督補佐:ヨヲスケ
照明:萩原賢一郎(アルティプラノ)
照明オペレータ:まごころ18番勝負
デザイン CG:福地亮介(C.I.I.)
音響:待山佳成
大道具:まごころ18番勝負
小道具:木村亜衣
制作:岩﨑育未・小俣聡・五十嵐彩華

2013年12月4日

ブラジル「性病はなによりの証拠」

ブラジル http://www.bra-brazil.com/

「性病はなによりの証拠」

2013/12/4(水)〜8(日) @王子小劇場 8st.


【脚本・演出】
ブラジリィー・アン・山田

【出演】
辰巳智秋
西山聡
諌山幸治
印宮伸二
堀川炎(世田谷シルク
金沢涼恵(クロムモリブデン
佐々木千恵
小川夏鈴(東京ジャンクZ

【日時】
12/4(水)  19:30
12/5(木)  14:30 19:30
12/6(金)  19:30
12/7(土)  14:30 19:30
12/8(日)  13:00 18:00

【チケット】
前売:3000円 当日:3300円 高校生以下:1000円(要学生証)
平日マチネ割引:2500円(12/5(木)14:30の回)

【こりっち】
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=50247

【感想などまとめ】
http://togetter.com/li/599387

【スタッフ】
舞台監督:掛樋亮太
美術協力:仁平祐也
照明:シバタユキエ
音響:和田匡史
音響協力:島貫聡
宣伝美術:川本裕之
チラシ写真/スチール:名鹿祥史
票券管理:スギヤマヨウ(QuarterNote)
制作:恒川稔英・池田智哉(feblabo
当日運営:横井佑輔(犬と串
企画制作:ブラジル事務局

2013年12月2日

スカラシップ2013上半期レポート 浜近拓也

王子小劇場から見る現代日本演劇の無中心的拡大
                          浜近拓也 

 今回王子小劇場のスカラシップをいただき、評価が安定している劇団でない劇団の公演を数多く見ることが出来た。普段私は年間70本ほどしか見ていないが、それではどうしても評価が安定している劇団に偏ってしまい、あまり批評や口コミなどには出てこない演劇公演にどういう傾向があるかを知ることは出来ない。このオフシーンの代表的劇場とも言える王子小劇場で多数の演劇を観た経験によって、逆説的に、世間的にも賑わっており、また個人的にも必要であると考えている日本の公共劇場の発展について実感を持って考えることが出来た。なにも私はこのエッセイで提言をしようという訳ではなく、実際の日本のオフシーンに触れて考えたことを綴っていきたい。
 正直言って、私はあまり優れていると思える作品を今回のスカラシップ期間に観ることが出来なかった。(シベリア少女鉄道を除いて。あの喜劇は素晴らしかった。)むしろこれほど自分の気に入らないような演劇を観続けたのは初めてだったので、非常に良い機会をいただいたと思う。私がこれらの作品を優れていると思わなかったのは、イデオロギーの無さに尽きる。私が見たほとんどの演劇は現実と距離を持って相対的な立場を取っているように感じた。マンハイムによれば、思想というのは全てある種のイデオロギーを持っているということだが、相対主義という思考の立脚点を自ら省みないまま、それが唯一絶対の立ち位置であるかのように振る舞っている作品があまりに多い。なぜここで行うか、なぜこの社会状況でこの作品をやるか、この省察が無いと確実に上演作品の強度が弱まる。自らの思考の立脚点すらままならない作品は弱いし、私は優れている作品だとは思えない。無論、この相対主義的な立場が悪いと言っているわけではない。自らの相対主義的な立場を一つのイデオロギーとして扱わずに、自分がどこの立場にも立たず傷つかない場所で演劇を行うということが問題なのだ。だが、今回の一連の観劇を経た限り(そして以前から自分がつまらないと感じた作品を省みると)そのような立場を取った作品があまりに多く、この状況の原因を彼ら自身に委ねることができるのと同時に、演劇環境に委ねることもできると感じた。彼らの立脚点が曖昧なのは、主流となる演劇創造形態がないため、自らの立場を選び取ることが出来ないのだ。換言すると、自らをオフシーンの立場として批判的に省みることが出来ていないということであろう。
 私は今現在ドイツのベルリンに留学しているため、ドイツの演劇事情と照らし合わせて考えていくと、ドイツのオフシーンでは主に鮮烈なイデオロギーと公共劇場では出来ないようなチープさをもって公演を重ねていく。象徴的に感じたのは、先日のandcompany&Co. という劇団の「Black Bismarck」という作品だ。この作品では、チープな方法を取って、ドイツ人の中に残るコロニアリスムをビスマルクの幻影によるものだとして、舞台上でビスマルクを破壊していくような作品であった。もちろんこの劇団はオフシーンの中ではある程度の評価を確立している劇団であるから、王子小劇場の一連の作品と単純に比較出来るものではない。しかし、日本で売れている小劇場の劇団をドイツの公共劇場の演出家たちに当てはめることが許されるなら、ドイツのオフシーンと王子小劇場がそれ程遠いものだとは言えないだろう。つまり、ドイツでは公共劇場で作る演劇が定着しているからこそ、完全なオルタナティブとしてオフシアターが活動できるのだ。翻って日本の現状をみると、他の先進国ではメインストリームであるはずの公共劇場が未だその位置を模索している状態で、それゆえオフシアターがオルタナティブとしての位置を確立出来ていない。そのため、自らがどの立場で演劇創造をしていくのかが曖昧になってしまうのではないだろうか。
もちろん、このようなドイツの公共劇場という主流があってオフシアターというオルタナティブがあるという状況を手放しで礼賛したいわけではない。というのも、無中心的に拡大していった日本の状況からも、数多くの素晴らしい演出家、劇作家が生まれたからである。しかし、そろそろ演劇を日本の文化として定着させても良いのではないかと思う。そのためにも、公共劇場という枠の中で、それを揺るがしていくような公共劇場の演劇と、全くオルタナティブの存在としてのオフシーンという枠組みを作るべく、日本は公共劇場を整備していくべきだし、そこに協力していきたいと感じた。
先日、She She Popという、日本の京都国際舞台芸術祭にも招致されている、これもドイツで人気のオフシーンの劇団の公演を観に行ったのだが、刺激的な舞台であるにも関わらず客席の半分ほどがサラリーマンや年配の方々で非常に驚いた。おそらくリアルタイムでハイナー・ミュラーなどを観ていた世代が新たな刺激を求めてオフシーンにまで観に来ているのだろう。日本の演劇も連綿と続く文化になってほしいと思った一コマであった。

スカラシップ2013上半期レポート ラモーナ・ツァラヌ

 形式によって手に入れる自由
                       ラモーナ・ツァラヌ

 今年4月から9月までの期間に東京で観た演劇の中で、面白いと思った演目の共通点は、俳優の演技が形式を踏むということだった。この場を借りて、形式的な演劇とそうではない演劇について考えてみたい。
 演劇作品の設定の中で俳優が舞台に立って、「自然な」仕草で振舞い、物語の流れも自然であるのが一つの様式。この場合、俳優が出来るだけその役になり切って、感情などを自然に表すことを演出に求められている。
 一方、俳優の身体を意図的に「不自然な」姿勢に置く演出方法もあり、定まった仕草の繰り返しが普通の身体性とは違う様子を見せるので、その振る舞いや動き方はどんな意味を持つかは観客には最初から分かるはずがない。日本の伝統芸能の決まりきった「型」を思い出させる。「型」に似ている仕草の繰り返しはある範囲で予測されやすいパターンを作り、面白く見える。結局はその仕草自体が意味がなくても、繰り返しによって生じるパターンが演劇作品の構造を内から支えるのだ。
 伝統芸能の場合、「型」の意味は演者と観客が共有する記憶に基づいている。その記憶は文化の底を流れる物語のことだ。形式にのっとって行う仕草については、新味がないとよく言われているようだが、型が新味を失うのは、長い間受け継がれ、演者自身がその型の元来の意味が分からなくなってしまったか、演じる側がその型の意味が分かっていても、見る側、つまり観客のほうがその演技の暗号を解読できないということだ。いずれにせよ、忘却の働きが演者と観客の間に生じるコミュニケーションの妨げになるわけである。しかし、現代演劇における形式的な演技の場合は、「今ここで」新しく発想された「型」なので、その仕草が意味を持つようになるのは、「今ここに」いる観客の目の前なのだ。すなわち、観客側の記憶ではなく、想像力が必要なのだ。
 形式的な演劇と、俳優に自然な仕草を求める演劇の違いを何かに譬えるのだったら、七五調・五七調の定型詩と、それと対照的の自由詩を楽しむことに似ている。どちらも特有の魅力と表現力があって、個人的にはどちらも好きなのだが、観劇の機会を重ねる中、演劇作品のテーマよりも形式的な演技の有無に関心が行くようになった。
 形式を踏む演技が面白いのは、リズムがあるからだ。リズム感のあるパターンに少しずつ馴れていく観客はある程度そのパターンの先を予測できるようになる。それで、パターンが急に変わると、新鮮さが自然に生まれてくる。舞台上で展開する物語のリズムを掴んでいるような、掴んでいないような感覚は観客にとって最高の楽しみであろう。
 面白いことに、「型」が舞台を離れて現実生活において出現してしまい、無意識的に繰り返されるようになると、人間が機械化する恐れが見えてくる。ここで、確実にこの意味を連想させる形式的な演技を使用した二つの作品に言及したい。
 王子小劇場で観た、劇団極東退屈道場の公演『サブウェイ』と、劇団Intro『わたし― The Cassette Tape Girls Diary』はテーマが違うのだが、両方では人間が機械化する設定が大事なモチーフになる。『サブウェイは』は故郷から離れて大きい町で生活している人たちの日常を描いて、その日常の中で人が自分を失っていくということが主題となる。『わたし― The Casette Tape Girls Diary』の場合、今を生きている女性の日常を描いているのだが、どうやら仕事と遊びの繰り返しの中で、生きていることを意識する暇もなくて、そのうち死んでしまうという設定が展開する。この二つの作品では、「機械化」に陥る現代人の危機的な状況を見せるために、形式的な演技が見事に実践される。
 形式という器を利用し、異なる効果を狙った演劇の一例として、遊園地再生事業団の公演『夏の終わりの妹』にも言及したい。この作品は大島渚監督の死去と沖縄と関東大震災を結ぶ物語で、色々な場所と時代を往来するその設定を表現するには、やはり演出家が自分でルールを決める形式がなくてはいけない。振り付けを連想させるその形式は5人の俳優の演技に止まるのではなく、セリフまでに及ぶ。一つのセリフを分けて発声するので、そのセリフは一人の登場人物だけに当てはまるわけではなく、実は大きな団体の言葉であるかのように聞える。(そういえば、この作品の登場人物は一体何人なのか?)身体の面では、俳優の動きが特別な舞台構造で制限される(前進か後進しか出来ない狭い小道がある、または俳優の進行を妨げる椅子があり、その椅子の下か上を通るしかない、といったような規則がある)。その形式の制限によって、逆に表現の自由が得られる点は興味深い。過去と現代、東京と沖縄、または東京の色々な町と被災地を行き来しているこの作品の設定は、その構造を支える機械のようなものを必要とする。リズムを踏むような演技がまさにその役割を果す。
 形式のある演劇の可能性をこれからも探っていく作品が出てくるだろうが、一つの問題が生じる恐れがある。身体が形式の中心となると、新しい演劇表現を目ざしながらも、やむを得ずどの作品も違う作品に似てしまうはめになる。それは、身体が元々限られたものだからであって、身体性が生み出す形式の幅も限られているはずなのだ。しかし、これはきっとこれから先の課題になるということで、演劇の形式化が過剰になるまでは、形式的演技がまだまだ面白い発展を見せてくれるであろう。

スカラシップ2013上半期レポート 福原麻梨子

破壊されゆく都市、その風景へのレクイエム
  福原麻梨子

「東京ってさ、常にスクラップ・アンド・ビルドで成り立ってきた場所だから、また壊されるのは、仕方ないというか、もう東京の運命みたいなもんなんだよね。」
2020年のオリンピック開催地が東京に決まった同月のある日、東京在住の友人から言われた言葉が、私の耳には切なく響いた。近年オリンピック開催国になった北京やギリシャの都市開発に伴い、そこに元々あった人々の生活空間が隅へと追いやられていく様を新聞などで見ていた私にとっては、東京もまた、2020年までに色々なものが、新しく造り変えられるために壊され、まるでそこに初めから存在しなかったかのように消し去られる運命にあることは理解できた。何か、抗ってみても決して容易には抗えない、時代の大きなうねりの中に自分も巻き込まれている、そう思っていた時、今の東京と言う都市の現状とシンクロナイズする演劇作品があった。それが、戦後ドイツ社会のタブーを暴力的な言葉でもって抉り続けた、映画監督であり劇作家でもあった、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(1945~1982年)の『ゴミ、都市そして死』という戯曲を基に上演された作品である。

この作品は、戦後の都市開発が進むドイツはマイン河畔フランクフルトと言う都市の、底辺に押しやられて生きる娼婦や労働者たちの生活を描いた作品である。この戯曲が出版されたのは1976年。作者亡き後ドイツで初演されたのは1985年。ホロコーストと言う、人類史上極めて悲惨なユダヤ人大量虐殺問題に対するドイツ国民の反省が求められていた時代に、敢えて作中に、戦中ナチスが刷り込んだイメージ通りの「卑しい金もうけをするユダヤ人」を登場させ、ユダヤ人に対するあからさまな悪意や彼らを罵る場面があるこの作品は、反ユダヤ主義の刻印を押され、言うまでもなく出版直後から回収騒ぎが起こるなど当時大問題となった。そんな本国ドイツでの問題作が、渋谷哲也翻訳、千木良悠子演出、演劇グループSWANNY主催により、2013年10月下旬、東京の紀伊国屋ホールにて上演された。

新宿駅東口改札から伊勢丹方面へ歩いて紀伊国屋書店の4階に上がると、奥に古びたホールがある。こんなところにこんなものがあったのか、と普段見ている小奇麗な、いや正確には小奇麗に意図的になっていく大通りの風景が私の頭の中でまた少し変化する。新宿紀伊国屋ホール、そこは現代的施設と比べるとステージも小さく場内の造りも古い。しかし作品が戦後のドイツということもあり、上演開始後そのホールの古さこそが、作品により良い影響を与えたように思う。日本人の役者たちが演じる、冷戦下ドイツの底辺で生きる人々が違和感無く目前に現れ、ステージ全体の敢えてキッチュな装飾、ナチス時代を回顧させる音楽、役者たちの卑猥で下品で暴力的なセリフによって、すぐに観る者を戦後ドイツの荒廃した都市へとタイムスリップさせた。

ファスビンダー作品の特徴として、特別なことは起こらない筋書き、描くのはある都市における狭い世界ながらも極めて複雑な人間関係、前面に押し出される作者自身の孤独感、救いようのない結末、と言う点が大きく挙げられる。今回の作品も例外ではない。緒川たまき演じる娼婦の主人公ローマ・Bが、恋人に暴力を振るわれてもなお、その男のために寒い冬の街で客を取り続けるが、地上げ屋として私腹を肥やす、あるユダヤ人男性と関係を持ってしまったために物事がより一層立ち行かなくなり、最後にはそのユダヤ人の男に自らを殺すよう頼み、命を断つ。そしてローマの恋人フランツが殺人犯として疑いをかけられ(と言うよりも犯人など誰でもいいと考える警察や上層部の人間たちの判断により)逮捕されるところで収拾なく話が終わり、幕が閉じる。
主人公ローマを含め、最後までここに生きる人々は報われることもなく、悲惨さと孤独に満ちた、生まれ変わろうとする都市の中で生を押しつぶされて行く。役者たちが発する舞台上から観客席へと暴力的に流れ込んでくる「生」への根源的な問いかけが残響のようにホールを満たし、観客のエネルギーを確実に奪っていった。
観劇後にホールを出て、新宿の街の喧騒の中に戻ろうとすると、恐ろしい疲労感に襲われ、この2013年の新宿で、『ゴミ、都市そして死』を上演したことは大きな意味を持つのではないかと感じた。それは、これからますます失われていくであろう、東京と言う都市の風景への一つのレクイエムなのではないだろうか。

1964年の東京オリンピックで、日本は戦後の復興を見事果たしたことを、世界に強くアピールした。しかしその新しい都市を支えるコンクリートの下には、戦後の焼け跡の中で懸命に生きる―しかし大体において社会的にあまり好ましく思われていない生活を送る―人々の居住空間や生活そのものも、少なからず埋められてしまった。今回もまた、同じことが起きる。現にオリンピック開催国決定前から、仕組まれたかのように東京のインフラは整備され始めていた。明らかに街の雰囲気にそぐわない新しい下北沢駅が良い例だろう。あの巨大でクリーンな駅を見ると、この街の景色や人々の営みが変わろうとしていることに気づく。例えば、下北沢ザ・スズナリのような、落ちそうな階段を昇って行かなければいけないバラックの芝居小屋が失われる日はそう遠くないのではないだろうか。そこで静かにしかし脈々と培われてきた人々の営みとともに。
もちろん防災と言う点において、都市とは常に新しいものに造り替えていく方が安全であることは間違いない。しかし都市の風景が変わる時、それとともに失われて行くものも確実に存在する。2020年までに東京は一体どういう風景になるのだろう。その途中で消されて行くであろう、文化や小さな共同体は、もう戻ってはこないのだろうか。
『ゴミ、都市そして死』の上演には、そんな変わりゆく都市の現状への、ささやかな抵抗と飲み込まれて行くものへの鎮魂の意味があったように思えた。何の因果か紀伊国屋ホールが誕生したのが1964年と言うことを後に知り、その思いは一層強まるばかりである。







取り上げた作品及び参考文献、参考URL

・『ゴミ、都市そして死』ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー著 渋谷哲也訳 論創社(2006年)
・SWANNY Vol.5 ファスビンダーの「ゴミ、都市そして死」
(上演日時2013年10月25日~27日、上演場所新宿紀伊國屋ホール)
・演劇グループSWANNY公式HP  http://swanny.jp

スカラシップ2013上半期レポート 野口彩

演劇の魅力と現状
     野口彩

 演劇とは何か、自分の中で確信に近い言葉はまだ見つけられていない。何のために作品を創るのか、何のために作品を観るのか、今一番関心があると共に頭を悩ませている。

しかし、この数か月様々な観劇と劇場でのインターンシップを経験し、演劇は創る人と観る人の双方が揃わなければ成立しない事を、考えの中心に置くようになった。作品の創作がゴールではない。第三者が作品を観る事で色々な見方や感想が生まれる。それらを共有したり、各々が自分の中で消化する事によって、作品の深みが更に増すのではないかと思う。

今回、王子小劇場のスカラシップで観劇の機会をいただき、演劇作品の幅広さを実感した。自らチケットを購入するとなると、どうしても趣味に合うとわかっているものを選びがちだ。今まで観た事のないテイストの作品の観劇はとても興味深く、表現方法の多様さを自分の目で知る事ができた。この多様さは演出だけでなく、劇中の言葉の選び方にも当てはまるだろう。観劇の際、印象に残る言葉やフレーズに出会う時がある。その言葉は観劇後も心の中に残り、自分の中の引き出しに蓄積されていく。自分の世界が広がるような感覚が好きで、私はもっと色々な作品を観たいと思うのかもしれない。また、同じ劇場の空間を使っていても、作品毎に会場内の空気は異なる。空間を自由に操って新しい世界を創れる事も演劇の魅力の一つだと思う。

しかし、観劇を重ねていく中で、演劇界は独特な狭い世界だと感じるようにもなった。現在の演劇界は観劇を趣味とする固定の演劇ファンによって成り立っていると言っても過言ではないだろう。映画や音楽やスポーツ等様々な娯楽がある中で、演劇は気軽に楽しめる身近なものではないと思う。

私は、演劇が一般的に普及していない原因の一例として、チケットの金額、限られた枠内の公演日時、公演情報の少なさの三つがあると考えている。

作品によって異なるが、二時間程の公演に小劇場は三千円以上、商業演劇は一万円近いチケット料金だ。これは決して安いものではなく、気軽に購入し難いと思う。金額によっては敷居が高いと感じさせるだろう。チケットの完売によって、観劇に興味を持った人が購入を熟慮する時間を提供できない場合もある。

また、殆どの公演が一日のうちに一~二回の上演で、ふと思い立って気軽に足を運びやすいとは言い難い環境だ。チケット発売の時期も公演初日の数か月前からと早く、予め公演日時に合わせて予定を組まなければならない。映画と比べ日時や会場の選択肢、DVD化が少ないため、公演日時に劇場へ足を運べた人しか楽しめないとも言える。これは身近に感じづらい大きな一因だと思う。

さらに、演劇の情報は他の娯楽に比べて少なく、一般的に周知されているとは言えないだろう。公演チラシは私自身観劇時の入手が多く、殆どが演劇ファンの手に渡っているように感じる。演劇の専門誌も手に取る人は演劇ファンが多いだろう。新聞の劇評やインタビューは年齢を問わず不特定多数の人の目に留まると思うが、ネットの普及によって新聞自体の利用者が減少している。近年利用されているSNSは、公演期間中にリアルタイムな情報を発信でき、頻繁な発信によってユーザーの目に入りやすい利点を持つ。しかし、タイムラインはユーザー自らが得たい情報を選んで作っており、公演情報を不特定多数の人に知ってもらうには不十分さが残る。また、現在TVを通した演劇情報は極めて少ない。出演者のインタビューが放送されても、公演に関する情報量は少ない印象だ。TVは不特定多数への発信という面だけでなく、稽古風景や公演のワンシーンの映像を観る事で、視聴者が文字の情報以上にどんな公演かを想像し易い利点があると思う。しかし、金銭的な負担が大きく、容易く利用できる媒体ではないのが現状だ。

 これらの課題は、私自身の観劇経験だけでなく、友人の声も参考にして見えてきたものだ。私は演劇を創る側の経験がないため、外側から見た演劇のイメージに過ぎないかもしれない。しかし、今後多くの人に演劇を広めようと考える上で避けては通れないと思う。具体的な改善策がまだ自分で見出せていないのが歯がゆいが、常に色々な角度から社会にアプローチする事が必要だ。公演だけでなく、教育の側面を持った学芸としてのアプローチも望まれる。

 余談になるが、小劇場の観客は公演に携わっている人の関係者が多数を占めているように思う。開演前の周囲の会話や終演後のロビーでの挨拶の様子は、観劇が趣味で劇場に足を運んでいる者から見ると違和感があり、狭い空間のせいか肩身が狭く感じる時もある。関係者の人に観てもらう事も人との繋がりを大切にする上で重要だが、もっと関係者以外の人に作品を観てもらうにはどうしたらよいかも考える必要があるのではないだろうか。

東京では毎日たくさんの作品が上演されていて、どんな人でもそれぞれの琴線に触れる作品に出会えると感じている。私は演劇の生の面白さや臨場感、空気感をもっと多くの人に体験して欲しい。そして、客観的な第三者の視点も持ちながら、身近で気軽に楽しめる演劇を創っていきたい。自分には何ができるかまだ模索中だが、《創り手と観客が出会い空間を共有する架け橋》になりたいと思う。

王子小劇場スカラシップ2013上半期レポート


2013年4月よりスタートした「王子小劇場スカラシップ
スカラシップ対象者は、王子小劇場の全演目を、無料で観劇できます。

今年度の5名の対象者に、2013年上半期(4月~9月)に東京の演劇を観て考えたこと、専門分野について学んだことのどちらかを選び、レポートを提出していただきました。

これからの日本の舞台芸術を担う彼らが今、東京の演劇に対して感じていること、それぞれの専門分野を活かした視点は、とても興味深く読み応えがあります。

ぜひ読んでください!


野口彩(國學院大学 法学部法律学科)

浜近拓也(慶應義塾大学 文学部独文学専攻) 

福原麻梨子(早稲田大学大学院 ドイツ語ドイツ文化コース修士課程)

山崎健太(早稲田大学大学院文学研究科 表象・メディア論コース博士後期課程 

ラモーナ・ツァラヌ(早稲田大学大学院文学研究科 日本語・日本文学コース博士後期過程)

スカラシップ2013上半期レポート 山崎健太



                            山崎健太

 私は4月から9月の間、自身の研究の一環としてサミュエル・ベケットの『わたしじゃない』『ロッカバイ』という2つの作品の作品分析に取り組みました。
 『わたしじゃない』については昨年度提出した修士論文における取り組みをさらに発展させ、戯曲を精読することによって作品の上演においてどのような観客の反応が想定されていたのかを明らかにする論文を執筆しました。
 『わたしじゃない』はベケットの演劇作品の中でもとりわけ謎の多い作品です。観客が闇に包まれた舞台上に目にするのは、身体から切り離され宙に浮かぶ「口」と、黒いローブに身を包んだ正体不明の「聴き手」の姿のみであり、しかも、両者はともに普通の人間と比べると遥かに高い位置に浮かんでいるように見えます。観客は舞台上に見える「口」や「聴き手」の正体を求めて「口」の語りに耳を傾けることになりますが、「口」の語りは非常な早口であり、かつ、語りの内容自体が非常に断片的であるため、そこで語られている内容を観客が完全に理解することは非常に難しいと言わざるを得ません。それでも「口」の語りに耳を傾け続けると、ある女性の一生が語られているらしきこと、そしてその「彼女」というのが「口」自身のことであるらしきことが徐々にわかってきます。
 作品分析によってまず明らかになったのは、支離滅裂にも思える「口」の語りが、実は観客に対する効果を計算に入れたうえで厳密に配置されたものであり、だからこそ観客は、ほとんど内容を理解できないかのように思われる「口」の語りから、「彼女」についての物語を聞き取ることができるということでした。
 では、『わたしじゃない』という作品はなぜこのような意味伝達の方法を採用したのでしょうか。「彼女」に関する物語を観客に理解させるためだけであれば、観客による言葉の理解を疎外するような早口かつ断片的な語りは必要とされなかったはずです。このような観点に基づいて戯曲を検討していくと、作品の新たな側面が明らかになってきます。『わたしじゃない』においては、「口」によって語られる物語と舞台上の視覚イメージとの関係はいつまでも宙吊りのままに置かれることになるのです。
 『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客は、「口」の語りの中に「口」と「聴き手」、そして語られる「彼女」との関係に対する説明を求めることになります。ところが、「口」の語りの中にはたしかに「口」「聴き手」「彼女」三者の関係を示唆するかのような言葉が頻繁に登場するものの、それらを詳細に検討していくと、そこから導かれる三者の関係への解釈は互いに矛盾していることが明らかになります。複数の可能な解釈が互いに互いを否定し合い、決定的な解釈はいつまでも回避され続けます。
 「口」の語りの中で「口」と「聴き手」、語られる「彼女」との関係は一定せず、それどころか、語り手と聴き手との立ち場は入れ替え可能な、不安定なものとして語られていきます。語られる「彼女」もまたその物語の中で支離滅裂な語りを聞くという経験をしますが、支離滅裂な語りを聞く者の思考もまた、それを解釈しよう聞いた言葉を反芻するうちに、いつしか語られる言葉と同じように支離滅裂な言葉の渦へと巻き込まれてしまいます。
 『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客にも同じことが言えます。「口」の支離滅裂な語りを観客は、その語りを理解するために「口」の発する言葉を脳内で反芻し、思い浮かべます。ところが、反復の多い「口」の語りは、やがて観客が脳内に思い浮かべているものと同じ言葉を発することになり、ここに至って「口」は、あたかも観客の脳内を読み取って言葉を発しているかのようにふるまいます。
 「口」の語りに仕組まれた、語られる「彼女」と「口」自身の状況の相似は「口」と「観客」自身の状況の相似と重なり合い、さらに、ベケット自身が「神経に作用する」とも語った「口」の猛烈な早口も相まって、観客の知覚を攪乱することになります。そのとき、観客はもはや舞台上から隔てられた客席に安全に潜んでいることは出来ず、「口」や「彼女」と同様の体験に晒されることになります。
 語られる物語と舞台上の視覚イメージとの相互作用はベケットの後期演劇では主題として繰り返し扱われてきました。『ロッカバイ』においても、舞台上で揺り椅子に揺られる老女の姿が語られる「彼女」やその母と重なり合うことで、舞台上の身体に多義的なイメージを付与することになります。また、後期演劇においてはしばしば指摘されることですが、そこでは人称代名詞が複数の指示対象を引き受けることで、身体に複数のイメージを付与する際に重要な役割を果たしています。2013年度後期も引き続き『ロッカバイ』の作品分析と論文執筆に取り組んでいく予定です。