山崎健太
私は4月から9月の間、自身の研究の一環としてサミュエル・ベケットの『わたしじゃない』『ロッカバイ』という2つの作品の作品分析に取り組みました。
『わたしじゃない』については昨年度提出した修士論文における取り組みをさらに発展させ、戯曲を精読することによって作品の上演においてどのような観客の反応が想定されていたのかを明らかにする論文を執筆しました。
『わたしじゃない』はベケットの演劇作品の中でもとりわけ謎の多い作品です。観客が闇に包まれた舞台上に目にするのは、身体から切り離され宙に浮かぶ「口」と、黒いローブに身を包んだ正体不明の「聴き手」の姿のみであり、しかも、両者はともに普通の人間と比べると遥かに高い位置に浮かんでいるように見えます。観客は舞台上に見える「口」や「聴き手」の正体を求めて「口」の語りに耳を傾けることになりますが、「口」の語りは非常な早口であり、かつ、語りの内容自体が非常に断片的であるため、そこで語られている内容を観客が完全に理解することは非常に難しいと言わざるを得ません。それでも「口」の語りに耳を傾け続けると、ある女性の一生が語られているらしきこと、そしてその「彼女」というのが「口」自身のことであるらしきことが徐々にわかってきます。
作品分析によってまず明らかになったのは、支離滅裂にも思える「口」の語りが、実は観客に対する効果を計算に入れたうえで厳密に配置されたものであり、だからこそ観客は、ほとんど内容を理解できないかのように思われる「口」の語りから、「彼女」についての物語を聞き取ることができるということでした。
では、『わたしじゃない』という作品はなぜこのような意味伝達の方法を採用したのでしょうか。「彼女」に関する物語を観客に理解させるためだけであれば、観客による言葉の理解を疎外するような早口かつ断片的な語りは必要とされなかったはずです。このような観点に基づいて戯曲を検討していくと、作品の新たな側面が明らかになってきます。『わたしじゃない』においては、「口」によって語られる物語と舞台上の視覚イメージとの関係はいつまでも宙吊りのままに置かれることになるのです。
『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客は、「口」の語りの中に「口」と「聴き手」、そして語られる「彼女」との関係に対する説明を求めることになります。ところが、「口」の語りの中にはたしかに「口」「聴き手」「彼女」三者の関係を示唆するかのような言葉が頻繁に登場するものの、それらを詳細に検討していくと、そこから導かれる三者の関係への解釈は互いに矛盾していることが明らかになります。複数の可能な解釈が互いに互いを否定し合い、決定的な解釈はいつまでも回避され続けます。
「口」の語りの中で「口」と「聴き手」、語られる「彼女」との関係は一定せず、それどころか、語り手と聴き手との立ち場は入れ替え可能な、不安定なものとして語られていきます。語られる「彼女」もまたその物語の中で支離滅裂な語りを聞くという経験をしますが、支離滅裂な語りを聞く者の思考もまた、それを解釈しよう聞いた言葉を反芻するうちに、いつしか語られる言葉と同じように支離滅裂な言葉の渦へと巻き込まれてしまいます。
『わたしじゃない』の上演に立ち会う観客にも同じことが言えます。「口」の支離滅裂な語りを観客は、その語りを理解するために「口」の発する言葉を脳内で反芻し、思い浮かべます。ところが、反復の多い「口」の語りは、やがて観客が脳内に思い浮かべているものと同じ言葉を発することになり、ここに至って「口」は、あたかも観客の脳内を読み取って言葉を発しているかのようにふるまいます。
「口」の語りに仕組まれた、語られる「彼女」と「口」自身の状況の相似は「口」と「観客」自身の状況の相似と重なり合い、さらに、ベケット自身が「神経に作用する」とも語った「口」の猛烈な早口も相まって、観客の知覚を攪乱することになります。そのとき、観客はもはや舞台上から隔てられた客席に安全に潜んでいることは出来ず、「口」や「彼女」と同様の体験に晒されることになります。
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