2013年12月2日

スカラシップ2013上半期レポート ラモーナ・ツァラヌ

 形式によって手に入れる自由
                       ラモーナ・ツァラヌ

 今年4月から9月までの期間に東京で観た演劇の中で、面白いと思った演目の共通点は、俳優の演技が形式を踏むということだった。この場を借りて、形式的な演劇とそうではない演劇について考えてみたい。
 演劇作品の設定の中で俳優が舞台に立って、「自然な」仕草で振舞い、物語の流れも自然であるのが一つの様式。この場合、俳優が出来るだけその役になり切って、感情などを自然に表すことを演出に求められている。
 一方、俳優の身体を意図的に「不自然な」姿勢に置く演出方法もあり、定まった仕草の繰り返しが普通の身体性とは違う様子を見せるので、その振る舞いや動き方はどんな意味を持つかは観客には最初から分かるはずがない。日本の伝統芸能の決まりきった「型」を思い出させる。「型」に似ている仕草の繰り返しはある範囲で予測されやすいパターンを作り、面白く見える。結局はその仕草自体が意味がなくても、繰り返しによって生じるパターンが演劇作品の構造を内から支えるのだ。
 伝統芸能の場合、「型」の意味は演者と観客が共有する記憶に基づいている。その記憶は文化の底を流れる物語のことだ。形式にのっとって行う仕草については、新味がないとよく言われているようだが、型が新味を失うのは、長い間受け継がれ、演者自身がその型の元来の意味が分からなくなってしまったか、演じる側がその型の意味が分かっていても、見る側、つまり観客のほうがその演技の暗号を解読できないということだ。いずれにせよ、忘却の働きが演者と観客の間に生じるコミュニケーションの妨げになるわけである。しかし、現代演劇における形式的な演技の場合は、「今ここで」新しく発想された「型」なので、その仕草が意味を持つようになるのは、「今ここに」いる観客の目の前なのだ。すなわち、観客側の記憶ではなく、想像力が必要なのだ。
 形式的な演劇と、俳優に自然な仕草を求める演劇の違いを何かに譬えるのだったら、七五調・五七調の定型詩と、それと対照的の自由詩を楽しむことに似ている。どちらも特有の魅力と表現力があって、個人的にはどちらも好きなのだが、観劇の機会を重ねる中、演劇作品のテーマよりも形式的な演技の有無に関心が行くようになった。
 形式を踏む演技が面白いのは、リズムがあるからだ。リズム感のあるパターンに少しずつ馴れていく観客はある程度そのパターンの先を予測できるようになる。それで、パターンが急に変わると、新鮮さが自然に生まれてくる。舞台上で展開する物語のリズムを掴んでいるような、掴んでいないような感覚は観客にとって最高の楽しみであろう。
 面白いことに、「型」が舞台を離れて現実生活において出現してしまい、無意識的に繰り返されるようになると、人間が機械化する恐れが見えてくる。ここで、確実にこの意味を連想させる形式的な演技を使用した二つの作品に言及したい。
 王子小劇場で観た、劇団極東退屈道場の公演『サブウェイ』と、劇団Intro『わたし― The Cassette Tape Girls Diary』はテーマが違うのだが、両方では人間が機械化する設定が大事なモチーフになる。『サブウェイは』は故郷から離れて大きい町で生活している人たちの日常を描いて、その日常の中で人が自分を失っていくということが主題となる。『わたし― The Casette Tape Girls Diary』の場合、今を生きている女性の日常を描いているのだが、どうやら仕事と遊びの繰り返しの中で、生きていることを意識する暇もなくて、そのうち死んでしまうという設定が展開する。この二つの作品では、「機械化」に陥る現代人の危機的な状況を見せるために、形式的な演技が見事に実践される。
 形式という器を利用し、異なる効果を狙った演劇の一例として、遊園地再生事業団の公演『夏の終わりの妹』にも言及したい。この作品は大島渚監督の死去と沖縄と関東大震災を結ぶ物語で、色々な場所と時代を往来するその設定を表現するには、やはり演出家が自分でルールを決める形式がなくてはいけない。振り付けを連想させるその形式は5人の俳優の演技に止まるのではなく、セリフまでに及ぶ。一つのセリフを分けて発声するので、そのセリフは一人の登場人物だけに当てはまるわけではなく、実は大きな団体の言葉であるかのように聞える。(そういえば、この作品の登場人物は一体何人なのか?)身体の面では、俳優の動きが特別な舞台構造で制限される(前進か後進しか出来ない狭い小道がある、または俳優の進行を妨げる椅子があり、その椅子の下か上を通るしかない、といったような規則がある)。その形式の制限によって、逆に表現の自由が得られる点は興味深い。過去と現代、東京と沖縄、または東京の色々な町と被災地を行き来しているこの作品の設定は、その構造を支える機械のようなものを必要とする。リズムを踏むような演技がまさにその役割を果す。
 形式のある演劇の可能性をこれからも探っていく作品が出てくるだろうが、一つの問題が生じる恐れがある。身体が形式の中心となると、新しい演劇表現を目ざしながらも、やむを得ずどの作品も違う作品に似てしまうはめになる。それは、身体が元々限られたものだからであって、身体性が生み出す形式の幅も限られているはずなのだ。しかし、これはきっとこれから先の課題になるということで、演劇の形式化が過剰になるまでは、形式的演技がまだまだ面白い発展を見せてくれるであろう。

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